金木犀



咽るような金木犀の香りで目を覚ました。
腕を持ち上げると、俺の腕から伸びる管の束の存在を思い出した。
鬱陶しい。
俺ひとりしかいない手狭な病室には、明日の手術に備えて俺の身体機能のさまざまを数値化するための機械が無造作に置かれている。

この小部屋に移されてから二日が経つが一度も電源を入れたことのないテレビの前においてある卓上時計に目をやる。
すでに時刻は正午近い。
今朝、定刻に目を覚まして朝食、採血、検温、血圧の測定を済ませてから、夏輝が勧めてくれた本を読んでいたら、いつの間にか眠ってしまったらしい。
枕元には、背表紙をこちらに向けて本が横たわり、ページから投げ出された書店のしおりがリナリウムの床に落ちていた。

昼食を摂ってから、本を再び手に取る。
静かな時間の流れに身を任せすごす時間は、心のささくれを取り除いてくれる。
息を吸い込むと、金木犀の甘い香りが肺に沁みた。

「こんにちは」
本の最終章に突入した頃合に、夏輝がやってきた。
時間の流れが元の速さに戻っていく。
「いらっしゃい」
「すごい香りだね。ドアを開けた途端に漂ってきたよ」
「うん、すぐそこに金木犀の大きな木が植わってるんだ」
部屋の隅に立てかけられていた折り畳みのパイプ椅子を自分で開くと、ベッドの側へ置き、勝手知ったる顔で腰掛けた。

「安心した」
「へ?」
何が、と目で問うと、夏輝は柔らかく笑んで答えた。
「明日手術だって聞いたから、気を遣うつもりで来たんだけど、その必要もなかったみたい」
「何だよそれ」

「怖いぐらいに落ち着いてるから」

沈黙に、風が吹き込む。
黄ばんだカーテンが風に乗り、俺と夏輝の間を一瞬隔てた。

「自分でも吃驚してるくらい落ち着いてるよ」
――もし明日の手術が失敗したら、俺は死ぬかもしれない――
考えたことがないわけではない。
だけど、あまりにも現実味のない話で想像がつかないのだ。

「生きて帰ってこれないかもしれない、なんて古臭い台詞言うつもりはないよ」
仮に手術が失敗したとして、麻酔がかかっているから痛くもかゆくもないだろうし。
と言って笑ってみせると、そういう冗談は好きじゃない、と睨まれた。

「生きるために受ける手術だけど、俺はそれほど生きることに執着していないんだ」
夏輝は、不可解な暗号を前に顔をしかめる数学者のような顔をした後、じゃあ僕は帰るねと立ち上がって椅子を畳みもとの場所に戻した。
「手術、成功するといいね」と儀礼的に述べて、夏輝は病室を出た。



長い夢を見た。

小児病棟にいたころ、夏輝と俺は同じ大部屋にいた。
気管支の弱かった夏輝と、生まれつき心臓の弱かった俺は、同い年ということもあってすぐに仲良くなった。

金木犀の香り立ち込める病室から抜け出して、ふたりで街を探検しに出かけた。
二人ともパジャマで、腕には点滴の管をぶら下げて、お忍びですと言わんばかりの格好だった。
すぐに夏輝の発作が起きてしまい、周りの大人から病院に引き戻されたけれど、変哲のない街があんなに輝いて見えたのは初めてだった。



手術が成功して、退院して、学校に通って。
日常らしい日常を手に入れる。

大丈夫。
俺はただ眠っていればいい。
きっとすべてうまくいく。



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