屋上






それからだ。
僕と彼女は、時間があると廃ビルの屋上に来るようになった。
連絡を取り合ったりしないので、たまにひとりになることもあった。
彼女はいつも空の絵を描き、僕は本を読んだり、宿題をしたりして、各自思い思いに過ごす。
ここに来ると、時間の流れがゆったりとしていて、とても落ち着く。

僕が、彼女と過ごす時間を気に入っているのには、もうひとつ理由がある。
僕たちの間には、心地よい距離感があった。
身内や学校の話もするが、お互いのことに立ち入らないことが暗黙の了承になっていた。
彼女はそういうことにとても敏感で、相手を不愉快にさせる話を一切しなかった。
とても卓越した大人びた少女だと感じた。

彼女は普段はとても寡黙で必要以上に喋らないけれど、妹の話をするときには饒舌になった。

時には写真を見せてくれた。
妹も、理知的な顔立ちで、穏やかな気性を感じさせるかわいい子だった。
彼女から妹の話を聞くごとに、自分の家族のような近しさを感じた。
ひとりっこの僕には、兄弟がいる彼女がうらやましかった。

それに何より僕は、溌剌と話をする彼女が好きだった。
恋とは違う、家族愛とは別の種類の、もっと入り組んだ「好き」が僕の中で蓄積されて行くのがわかった。


 ***


しかし、この日は彼女の様子が変だった。

いつもなら、僕が扉を開けても自分の作業に没頭していて目もくれなかったのに、
今日は扉の開く音がすると同時に
彼女がこっちを向いて「待ってたよ」と言い立ち上がった。

僕はてっきり、彼女がいつものように絵を描いているものだとばかり思っていたのだが、
僕が来るまでの間も何もせず、本当に僕を「待っていた」ようだった。

慣れない展開に戸惑う僕を面白がりながら、今日は話があるのだと言った。

「ずっと、あなたを騙していました。嘘を吐いてたの。赦してくれなんて言わないけれど、これだけは言っておきたくて……本当に、ごめんなさい」
「……え?」
いきなりの話題に、皆目見当がつかない。
騙してた? 嘘? 彼女は、何の話をしているのだろう。

彼女は意を決したように小さく息を吸い込むと、真剣な表情で切り出した。
「本当は……千鶴は、もう亡くなってるの」

彼女の言葉に、僕の世界が傾ぐ。

彼女は、平坦な口調で続けた。
「あの日、はじめてあなたと会ったあの日の朝早くに千鶴が亡くなったって連絡があったの。それで、ショックで……千鶴に、何もしてあげられなかった自分が惨めで、せめて、あの子が好きって言ってくれた絵を届けたいと思ったの」

「それで思いついたのが、どこか、空に近い場所から、空に向かって絵を送ることだったの。勿論、本当に届くとは思っていなかったけれど、それがあたしにできる唯一の餞だと思ったから」

それから、街の目ぼしい場所を回って、この廃ビルの屋上を見つけた彼女は、今まで描いた空の絵をコンクリートの床に並べコンビニで買った線香に火をつけて、燃え尽きるまでの間じゅうずっと黙祷をしていたそうだ。

「でも、途中で風が巻き起こって、並べていた絵が飛んでしまって……そしたら―――」

そしたら、ビルの丁度前の道に、僕がいた。

「あのとき、絵を集めてくれて、本当に嬉しかった。千鶴が死んじゃったって聞いて、独りになったと思って、悲しかったから。千鶴のことを聞かれて、まだ生きているような言い方をしたのは、あの子が死んでしまったってことを認めたくなかったからなの。……本当に、ごめんなさい」

言葉が出なかった。
僕はただ呆然と立ち尽くす以外に何もできなかった。


「それに……あたし、引っ越すの」
「引越し?」
嫌な予感がした。

「お父さんが海外に単身赴任することになって、
あたしはお父さん方のおばあちゃんの家に行くことになったの」
だから、と言葉を継ぐ。
「明日の朝には、北海道のおばあちゃんの家へ発たなきゃいけないの」
「そんな、突然……」

目まぐるしい展開に脳が追いつかない。
事実を飲み込めない。
妹さんが亡くなっていたことと、彼女の引越しと、両方が重くのしかかる。

「もう、会えないかもしれないの……?」
「それは……わからない」
でも、と、僕は心の中で彼女の言わんとしていることを補った。
でも、親の庇護下にいるうちに僕たちが会うことはないだろう。
そして大人になるまで、ずっと連絡を取り合っている保証なんてない。

「だから、これを貰ってほしいの」
彼女は鞄から筒を取り出し、僕に差し出した。
輪ゴムを解くと、筒が広がった。

それは、空の絵だった。
夕焼けの青から朱のグラデーションが、冬の夕方の、胸を締め付けられるような感覚を思い起こさせる。

「今まで、黙っててごめんね」
か細い声で言うと、彼女はノブに手を掛けた。
ガチャ、という金属音が、やけに大きく聞こえる。

本当にこれが最後かもしれない、そう考えた瞬間、僕は咄嗟に、叫んでいた。
「あの絵は」
彼女の足が止まる。
僕は必死で言葉を足した。
「あの、見つけることのできなかった一枚の絵は、きっと届いてるよ」

「きっと、妹さんに……千鶴ちゃんに届いてるよ」

だから、だから。
そんなに謝らないで欲しい。
自分を卑下しないで欲しい。
笑って欲しい。

「ありがとう……」
彼女は洟を啜り、僕を振り返ると、精一杯の声で言うと、今度こそ本当に彼女はこの屋上から去ってしまった。

―――鮮烈な印象と空の絵だけ残して。




fin.

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