屋上




突然だった。

あの日、学校からの帰り道、僕はぼんやりと足を運んでいた。
すると目の前に青空の絵が一枚落ちていた。
屈んで絵を手に取り、何事かと訝っていると、たくさんの画用紙が空から降ってきたのだ。
空の絵ばかり、何枚も、何枚も。

驚いて見上げると、廃ビルの屋上にいる少女と目が合ってしまった。
その子は今にも泣き出しそうな表情でこちらを向いていた。

足がその場に縫いとめられたみたいに、動くことができない。
お互いが相手から話しかけられるのを待っていて、暫く無言だった。

「君の?」
痺れを切らして、思わず裏返ってしまった声で僕が尋ねる。
彼女は、言葉を発する代わりにこくんと一度だけ頷く。
「今、そっちへ持って行くから」
すると彼女は口元を緩め、安堵の笑みを浮かべた。
僕はその笑顔を見ると、あたりに散らばった画用紙をかき集めて、
階段を一気に駆け上がった。

五階分の階段を上りきると、ペンキの剥げかけている金属のいかにも重そうな扉に辿りついた。
ノブを回し、体重をかけると、ギイと音がして扉が開いた。
息を整えながら見回すと、あの女の子が柵に凭れて座っていた。

「はい、これ」
乱雑なままの画用紙の束を手渡す。
そのとき、彼女が小さな声でありがとう、と言ったのが聞こえた。

走ったお陰で、僕は頬が上気し、背中に汗をかいたが、指先は凝っていた。
ポケットに手を突っ込み、思いついたことを口にする。
「寒くない? 何か、温かいものでも買ってくるよ」
僕は彼女の返事を待たずに半歩踏み出す。

すると、小さな手が僕のコートの袖口を掴んだ。
「……平気」
小さな声で、でもはっきりと、彼女は言った。
まだ濡れたままの双眸が僕を映す。
無性に照れくさくなって僕は視線を逸らしてしまった。
同時に、彼女の機嫌を損ねたのではないかという懸念が頭を過ぎった。

僕は苦し紛れに話題を変える。
「それ、全部あるか確認しなよ」
視線で画用紙の束を示すと、彼女は合点が行った様子で小さく頷いた。
コンクリートの床に画用紙を一枚ずつ広げていく。

青空の絵が一番多いけれど、夕焼けや気の早い月、曇天の空の絵もあった。
一枚一枚、微妙に異なる様々な空の絵が床に展開される様子は新鮮な驚きがある。

「どれも、すごく綺麗だ……」
賞賛の言葉と感嘆の息が一緒に漏れる。
彼女は耳まで真っ赤にして、照れたことを気づかれまいと俯いたままなので、君が描いたの? と尋ねる必要がなくなってしまった。

彼女は黙々と、乱れた束の画用紙の向きを直し、端を揃えると枚数を数え始めた。

「一枚足りない」
彼女が不意に僕を見上げたものだから、心臓が跳ねる。
その口調からは焦りが滲んでいた。
「本当? 一応、見える範囲に飛んでいたものは集めたつもりなんだけど……」
もしかしたら、僕が見落としてしまったのかもしれない。

「千鶴が、好きって言ってくれた絵がないの」
呟くと、画用紙の束をもう一度数えなおす。
三度ばかり繰り返したが、やはり一枚足りないらしい。
「どうしよう……」

今にも泣き出しそうな表情の彼女に、僕が言えることはひとつしかなかった。
「探しにいこう」
僕は彼女の手を取って、さあ、と促した。
彼女の細い指先は、僕と同じくらい冷たかった。


翌日、僕は階段を上りながら、昨日の出来事を反芻していた。

結局昨日は絵が見つからないまま日没となり遅い時間に帰宅するわけにもいかないので、泣く泣く解散になった。
別れ際の彼女の表情は暗く、酷く落胆していて、納得できない様子だった。
当然、納得できなかったのは僕も同じだ。

階段を上りきると、半開きになったオレンジ色の塗装がところどころ剥げている扉をそっと押す。
視界が一気に明るくなり、吹き込んできた風がマフラーの房を揺らした。

「やっぱり、来てたんだね」
そこには、昨日の少女が虚ろな表情で柵に凭れて座っていた。
彼女は、僕が来たことに驚いたようで、目を見開き、唖然としていた。
僕は構わず続ける。
「ここに来れば、君にまた会える気がしたんだ」
言うと、彼女は表情を崩して、はにかんだ。
「……あたしも。なんとなく、ここで待てばあなたが来る気がした」

それから、 「昨日は、ずっと一緒に絵を探してくれてありがとう。色々考えたんだけど、あの絵のことは諦めることにしたの。やっぱり、一日経ってしまうと見つけるのは難しいだろうから」
力なく笑むと、それっきり彼女は口をつぐんでしまった。
口では吹っ切れたようなことを言っていても、やはり落ち込んでいるようだ。

彼女は、何度もスケッチブックを手にとって、空の絵をめくっては何か口を動かしていた。
小さく漏れた声は、千鶴、と聞こえた。
恐る恐る、僕は昨日からずっと疑問だったことを訊いてみた。

「千鶴……って、どんな子なの?」
千鶴、と言った瞬間、彼女がびくんとして、動きが止まった。
尋常じゃない反応に、僕は聞いてはいけないことなのかもしれないと考え直し、あわてて付け足した。
「……えっと、話したくないのなら無理に聞くつもりはないけど……」

やや少しの間をおいて、彼女は懐かしむような遠い目をして、訥々と話し始めた。
「妹なの」
「……妹、さん?」
「五歳年下の、一番大切な妹なの。素直で、すごくいい子で、天使みたいな子なの」

「小さいときからずっと体が弱くて、入退院を繰り返してたんだけど……」
両親が離婚して、彼女は父親に、妹さんは母親に引き取られ、離れ離れになったという。
だが彼女は両親の離婚後も変わらず、妹さんの病室をこっそり見舞っては、自分の描いた絵を見せていたそうだ。

「あたしが絵を描き始めたのは、千鶴が、あたしの絵を好きだって言ってくれたからなの」
だけど先日、母親にそのことがばれて、妹さんは転院させられてしまったらしい。

彼女は、一筋の涙を滑らかな頬に滑らせていた。
「もう、会えないって分かっているけど、描くのをやめられないの」
自嘲気味に言って、彼女はこの話を終わらせてしまった。


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